長光寺は、文禄二年(1593)四月、上野国利根郡池田村(現在の沼田市上発知町四四五)沼田の天狗様で有名な迦葉山龍華院十代・崇山奨和尚を開山とし、建立された。曹洞宗に属し、山号を松雲山と称し、釈迦牟尼仏を本尊とする。
慶安四年(1651)の火災で堂宇その他の記録を焼失するが、昭和八年に本堂を落慶する。
平成八年には、長光寺開創四百年記念事業として当時第十七世再中興慈天松雄大和尚により、山門改築・本堂屋根葺替・境内整備が行われる。
そして、平成十四年には現第十八世天楽伸悦和尚により、開山堂が新築され、現在に至る。
長光寺は利根川を背に、山々を遠くに望む豊かな水郷に位置し、墓地には一万年前の利根川の砂丘が残っている。また、かつて中世に台頭し、戦国時代に活躍した豪族、須賀修理大夫の館(須加城)の跡や明治俳壇三傑の一人、川島奇北の菩提寺である(
長光寺に眠る俳人、川島奇北を偲んで、寺では俳句会が毎年催されている。そして毎回、入選した句が句碑として山門前に並べて作られ、訪れる人の心を和ませている。)など、寺には歴史的事象が事欠かない。
1867*−1947 明治-昭和時代の政治家,俳人。
慶応2年12月11日生まれ。川島梅坪(ばいへい)の長男。埼玉県会議員をつとめ,利根川護岸工事などにつくす。明治34年生地須加村(行田(ぎょうだ)市)村長となる。正岡子規の門にはいり,高浜虚子らと親交があった。埼玉俳壇の中心的存在。昭和22年9月24日死去。82歳。本名は得太郎。句集に「田園」。
※川島梅坪(ばいへい)1835−1891 明治時代の教育者。川島奇北の父
天保6年7月21日生まれ。川島奇北の父。武蔵(むさし)忍(おし)藩(埼玉県)藩儒芳川波山にまなぶ。埼玉県令白根多助にまねかれ,明治8年県立学校監事となり,中学師範学校長をかねる。近代の学校教育制度の確立につくした。のち北葛飾郡長。明治24年5月25日死去。57歳。武蔵埼玉郡出身。本名は浩。編著に「埼玉県地誌略」など。
奇北忌 句会 (2015年は9月27日)
奇北を顕彰し毎年「奇北忌俳句大会」が開催されています。
大会での最優秀作品の俳句が、長光寺参道の両側に並ぶ灯篭の下で石碑に刻まれ
並んでいます。